「小野妹子」とは?

「小野妹子」は、近江国滋賀郡小野村(現在の滋賀県大津市小野)生まれの、天足彦国押人命(記紀等に伝わる古代日本の皇族)を氏祖とする豪族で、飛鳥時代の官人です。

推古天皇の時代の607年に、摂政である聖徳太子に選ばれ、当時の超大国である「隋」に渡って学問・文化・技術などを学ぶための使節である「遣隋使」として中国大陸にわたりました。

当時の中国大陸では、戦乱が続いていて、国交が長く途絶えていた為、「隋」が、中華統一したのを機に国交を再開するという意味合いが大きかったようです。

小野妹子は、聖徳太子がしたためた書状を携え、「隋」の皇帝「煬帝」に謁見しました。

その書状には、

【日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。】(東の国(倭)の天子が、西の国(隋)の天子に手紙を書きます・・という意味)という文言を目にし、「煬帝」は、激怒しました。

天子」という称号は、世界の中心に君臨する中国の皇帝のみが用いるのを許された称号であり、倭(日本)の国は、卑弥呼の時代より、朝貢することで、中国に倭の支配者として認めてもらう「冊封」という外交政策をとってきたという歴史があるため倭は中国の属国としての認識が根強くあったためです。

聖徳太子は、「天子」という言葉を使うことで、「倭」を属国から独立国へ認めさせようとしました。

この時の情勢として、「隋」は、「高句麗」との戦争中で、「倭」と「高句麗」が手を結ぶことを避けたかったため、「煬帝」は、激怒しましたが、「遣唐使」である「小野妹子」を処罰せず、国史して「裴世清」を「倭」の帰路に同伴させました。

しかし、小野妹子は、「煬帝」の返書を帰路の途中の「百済(くだら)」で紛失し、帰国後、その罪を問われて流刑となってしまいます。(後にすぐに恩赦が与えられ昇進したことから、政治的な配慮からわざと紛失したのではないかと現在では考えられています。)

恩赦が与えられた小野妹子は、官人の中で最もくらいの高い「大徳」に昇進し、608年に「裴世清」が「隋」に帰国するのに伴い、遣唐使として再び大陸に渡り、609年に帰国しました。

晩年、小野妹子は出家し、「六角堂」というお寺に入りました。仏門に入った小野妹子は、御本尊に花を供えました。これは、隋での体験に感銘を受けて行った行為ですが、当時の日本には、仏様にお花をお供えするという習慣がなかったため、このことが日本における華道の始まりといわれていて、小野妹子は、「華道の祖」として扱われることがあります。

小野妹子の墓は、大阪府南河内郡太子町の科長神社南側にある小高い丘の上にあります。

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