「平賀源内」とは?

 

「平賀源内(ひらがげんない)」(1728 - 1780年)は、江戸時代中頃の地質学者、蘭学者、医者、発明家などの多彩な人物として知られています。

「源内」または「元内」。多くの別名があることで有名です。

画号(画家名)「鳩渓(きゅうけい)」、

俳号(俳人)「李山(りざん)

文号(戯作者)「風来山人(ふうらいさんじん)

浄瑠璃作者福内鬼外(ふくうち きがい)

殖産事業家天竺浪人(てんじくろうにん)

また、生活に窮して細工物を作り売りした頃には「貧家銭内(ひんか ぜにない)」などといった名前で呼ばれることもあったそうです。

f:id:manten3:20200522212334j:plain

1728年(享保13年)に、讃岐国寒川郡志度浦(現在の香川県さぬき市志度)の讃岐高松藩の足軽の白石家の三男として生まれました。

1739年(元文4)11歳の時に、掛け軸に細工をして「お神酒天神」を作成し、その評判が元で13歳から藩医の元で本草学と儒学を学びます。

1749年(寛延2年)21歳の時に父が没し、家督を継ぎ平賀姓を名乗ります。高松藩志度御蔵番一人扶持の切米三石。藩の栗林薬園に携わります。渡辺桃源ら俳諧仲間と親交し、俳号「李山」を名乗ります。

1759年(宝暦2年)24歳の時に、長崎に遊学に出かけ、本草学とオランダ語、医学、油絵などを学びます。

1754年(宝暦4年)26歳の時に、藩務退役願いが許可され、妹婿の「従弟権太夫」に平賀家の家督を譲ります。

1755年(宝暦5年)27歳の時に、「量程器」と「磁針器」を作製。

1756年(宝暦7年)28歳の時に、大坂、京都を経て江戸にでて、本草学者「田村元雄(藍水)」に弟子入りして本草学を学び、漢学を習得するために林家にも入門します。

1776年、長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生機)を修理して復元する。 

1779年、大名屋敷の修理を請け負った際に、酔っていたために修理計画書を盗まれたと勘違いして大工の棟梁2人を殺傷したため、11月21日に投獄され、12月18日に破傷風により獄死した。享年52歳。