「高木兼寛」とは?

「高木兼寛(たかきかねひろ)」は、日本の海軍軍人で、医学博士であり、東京慈恵会医科大学の創設者です。ビタミン欠乏症の一つであり、重度で慢性的なビタミンB1の欠乏によって心不全と末梢神経障害をきたす疾患である「脚気」の撲滅に尽力し、「ビタミンの父」とも呼ばれています。

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薩摩藩郷士・高木喜助兼次の長男として日向国諸県郡穆佐郷(現・宮崎県宮崎市高岡町)に生まれました。18歳のときから薩摩藩蘭方医の石神良策に師事し、戊辰戦争の際には薩摩藩兵の軍医として従軍しました。1869年(明治2年)に開成所洋学局に入学し英語と西洋医学を学びました。

その後、海軍に入り、イギリスに留学して英国外科医・内科医・産科医の資格と英国医学校の外科学教授資格を取得し帰国しました。

1888年(明治21年)5月7日に学位令(勅命第13号/明治20年5月20日)の規定により、(文学・法学・工学・理学・医学)の5種の博士の学位に対し25名が日本で初めて授与されましたが、医学博士としてその一人として列に加わっています。

《文学博士》加藤弘之、重野安繹、外山正一、小中村清矩、島田重禮
《法学博士》箕作麟祥、鳩山和夫、穂積陳重、菊地武夫、田尻稲次郎
《医学博士》池田謙斎、橋本綱常、高木兼寛、三宅秀、大澤謙二
《理学博士》矢田部良吉、伊藤圭介、菊池大麓、山川健次郎、長井長義
《工学博士》松本荘一郎、古市公威、原口要、長谷川芳之助、志田林三郎

当時、軍隊内部で流行していた脚気について、本格的にこの解決に取り組み、海軍では兵食改革(洋食+麦飯)の結果、脚気新患者数、発生率、および死亡数が激減しました。高木は、1884年(明治17年)の軍艦「筑波」による航海実験も行ってこの兵食改革の必要性を説きました。この航海実験は日本の疫学研究のはしりとされ、それゆえ高木は「日本の疫学の父」とも呼ばれています。その後、いわゆる海軍カレーが脚気撲滅に一役買ったともいわれています。