「中甚兵衛」とは?

「中甚兵衛(なかじんべえ)」は、大和川付け替え工事を敢行し中河内発展の礎を築いた社会事業家です。

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中甚兵衛は、1639年(寛永6年)河内国今米村(現在の大阪府東大阪市)の庄屋川中九兵衛の三男として生まれました。

大和川は、奈良県桜井市の北東部に水源を発し、大阪湾に注ぐ一級河川ですが、かつては、大阪平野に流れ出た大和川は、柏原で石川と合流、河内平野を北流れして大阪城付近で淀川に合流し、大阪湾に流れ込んでいました。大和川がもたらす肥沃な土砂は地域の農業発展に貢献しましたが、同時に度重なる水害を発生させ多くの周辺住民を苦しめてきました。

甚兵衛の父、九兵衛は大和川の付け替えを何度も幕府に嘆願しましたが、志を果たせぬまま亡くなります。九兵衛の遺志を継いだ甚兵衛は、直接に江戸出訴を試みるなど以後40余年にわたって訴願活動を続けました。ただ、大和川の付け替え予定地にあたる村々では、新しい川によって先祖伝来の家や田畑がつぶされるため、激しい反対運動や嘆願活動が起こり、事業はなかなか進展しませんでした。

そんな中、大坂の代官である万年長十郎が、甚兵衛を支持しました。万年は堤奉行も兼ね、河村瑞賢の治水工事に随行した経験もあったこともあり、甚兵衛の資料をつぶさに検討しました。その結果大いに共鳴し、率先して幕府への陳情を行いました。

1703年(元禄16年)、幕府は大和川付替えを正式に決定し、翌年の2月27日、工事は川下にあたる堺の海側から開始されました。

甚兵衛は、農民の身でありながら並み居る幕臣に交じって、付替え工事を指揮しました。

工事は、石川との合流地点から西に流れる新川が開削されたもので、総延長14km、川幅180mに及ぶ大工事にも関わらず、同年10月に完成するという入れのスピードでした。

この大和川付替工事による古川床と沼床の干拓で1064haの新田が創出されました。竣工の翌年甚兵衛は、出家して「乗久」と名乗りました。

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付け替えの起点になった所は、「築流」と呼ばれ、現在では、大和川治水記念公園が設置され、その中には治水記念碑とともに中甚兵衛象が立っています。