「那須与一」は、平安時代末期の武将で、下野の国那須野が原(現在の栃木県北部那須地方一帯)に勢力を持った那須資隆の息子として誕生しました。与一は十あまる一、つまり十一男を示す通称であり、「那須与一」は、須資隆の十一男であったと考えられています。
為隆を除く9人の兄達が、皆「平家」に味方し、為隆も後に罪に問われたため、与一が十一男ながら那須氏の家督を相続しました。那須氏二代当主となった後は「那須資隆」と名乗ったと伝えられています。
奥州平泉にいた「源義経」が、兄の「源頼朝」に加勢するため、1180年(治承4年)に戦勝祈願に「那須温泉神社」を参拝に訪れた際、那須岳で弓の稽古をしていた、兄十郎為隆と与一に源氏方に従軍させる約束を交わしたと云われています。与一は、弓の腕を上げようと修行を積み過ぎた為、左右で腕の長さが変わってしまったと伝えられています。
1185年(元暦2年)の「屋島の戦い」において、義経と行動を共にした与一は平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とすなど功績を挙げ、後に丹波・信濃等5か国に荘園を賜りました。
平家に味方していた9人の兄と十朗為隆には那須の各地を分地して与え、それ以降は、那須十氏として本家に仕え、それぞれの地位を築いていきました。