「沖牙太郎(おききばたろう)」(1848-1906)は、明治時代に活躍した技術者・実業家で、日本で初めて電気通信機器の製造・販売事業を行った明工舎(現・沖電気工業㈱の前身)の創業者です。
1848年5月10日に安芸国沼田郡新庄村(現在の広島市西区新庄町)の農家に6人兄姉の末っ子とした生まれました。
27歳の時上京し、1870年(明治3年)に設立された工部省に(1877年に電信局)にいきました。そこで、同郷の先輩で、当時工部省電信寮の修技科長をしていた「原田隆造」のもとを訪ね、住み込みの書生として採用されます。原田の弁当を持って汐留の電信寮に通うのが牙太郎の日課となりました。
1877年(明治10年)に官制改定で電信寮が電気局になった際、牙太郎は「工部九等技手二級」へと昇進しました。1本のヤスリを手に上京してから約3年、雑役として製機所に入所してから2年4カ月で工部省技手の辞令を手にする異例の昇進でした。
同年におこった西南戦争を機に電信事業の必要性が増大し、政府からの電信機国産化の要請を受けて電信用の電気針や電極器などの製作に携わりました。
1881年(明治14年)には、電信機・電話機・電線・電鈴等の製造、販売を目的として東京・銀座に日本初の通信機器メーカー「明工舎」(後の沖電気工業株式会社)を設立し、同年には、国産第1号電話機を製造しました。