「まめすっとぎ」とは?

「まめすっとぎ」は、岩手県で昔から食べられている郷土料理・菓子で、「豆しとぎ」とも呼ばれます。

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かつては、旧暦の12月12日に山の神様や家神様のお供えとして大豆が収穫される秋から冬にかけて作られていました。現在でも、一年の農作業をねぎらい、収穫に感謝する「秋じまい」という農家の行事などでつくられています。

材料は、青豆・米粉・砂糖・塩だけを使い、一つ一つ丁寧に手作りしている生菓子です。青豆の素材を生かし滑らかで甘く仕上げているのが特徴です。

作り方は、青大豆をきれいに洗い一晩水につけておき、塩をひとつまみいれた湯で沸騰させ、ざるでお湯を切り冷水で冷やし、ミキサーなどで粗目に粉砕したものと米粉と砂糖、塩を合わせてよく混ぜ、太さ5cm程度の棒状にまとめ、1cm程度の厚さに切る。

「中尊寺」とは?

「中尊寺(ちゅうそんじ)」は、岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗東北大本山の寺院です。本尊は釈迦如来で、寺伝によると、850年(嘉祥3年)「円仁(慈覚大師)」が関山弘台寿院を開創し、859年(貞観元年)に清和天皇から「中尊寺」の額を賜ったと伝承されていますが確かな史料は残っていません。実質的には12世紀初頭、奥州藤原氏の藤原清衡が釈迦如来と多宝如来を安置する「多宝寺」を建立したのが、中尊寺の創建と見られています。

ちなみに、「円仁」は、最後の遣唐使の一員として大陸に渡り、東アジアの三大旅行記の1つ「入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)」の著者として知られています。(「円仁」は、入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)と呼ばれる僧の一人)

奥州藤原氏三代ゆかりの寺として、平安時代の美術、工芸、建築の粋を集めた金色堂を始め、多くの文化財を有していて、2011年(平成23年)6月26日、「平泉 仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」の構成資産の一つとして世界遺産に登録されました。

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11世紀後半、「前九年・後三年の合戦」を経て、安倍氏・清原氏と受け継がれた奥六郡(岩手県中南部)を藤原清衡公が伝領し奥州藤原氏が興ります。藤原清衡は江刺郡豊田館から平泉に居を移し、1105年(長治2年)に関山に中尊寺を造営しました。

しかし、1189年(文治5年)に源頼朝が、藤原氏を滅ぼした後、中尊寺をはじめとする平泉内の寺院は荒廃していくことになります。

さらに、戦国時代に入るとさらに荒廃が進み、豊臣秀吉の命令によって中尊寺の秘宝である「金銀字一切経(きんぎんじいっさいきょう)」「金字一切経(きんじいっさいきょう)」あわせて4,000巻以上が京都伏見に運び出されました。それが現在「中尊寺経」として高野山や観心寺などに所蔵されています。

江戸時代に仙台藩領となった平泉は、歴代の藩主によって、堂社を修理するなど中尊寺はあつく保護されまあす。現在参道ぞいに立ち並ぶ樹齢350年の老杉も仙台藩によって植樹されたものです。

明治時代以降も、国庫の補助による数度の修理がおこなわれ。「金色堂」は国宝建造物第一号に指定され、その他3,000点以上の宝物が国宝・重要文化財の指定を受けることになりました。

1958年(昭和33年)には比叡山延暦寺より不滅の法灯を分灯し、「天台宗東北大本山」の称号が認められることになりました。

「入唐求法巡礼行記」とは?

「入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)」は、平安時代の遣唐使の僧「円仁(慈覚大師)」らが、838年(承和5年)に博多を出発して揚州に向かってから847年に帰国するまでの10年間中国各地を巡礼した日記体の旅行記です。(ちなみに、円仁は、836年(承和2年)に1回目の渡航が失敗し。、翌837年(承和3年)に再び渡航を試みましたが失敗しています。)

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「玄奘」の「大唐西域記」、「マルコポーロ」の「東方見聞録」とともに、東アジアの三大旅行記といわれています。

9世紀の唐時代の中国の社会・風習についての記述も多く、貴重な史料として高く評価されています。

1291(正応4年)に京都の長楽寺の兼胤という僧が、72歳の時に書写した写本が、明治時代に東寺で発見され、1955年には、駐日アメリカ合衆国大使「エドウィン・O・ライシャワー」が英訳して紹介したものが、各国語に翻訳されて広く知られる所となりました。ライシャワーは本書の英訳と研究によって博士号を取得ています。

「じゃっぱ汁」とは?

「じゃっぱ汁」は青森県津軽地方の郷土料理です。 「じゃっぱ」とは、津軽弁で「雑把」の意味であり、通常は魚を三枚おろしにした際に出る頭や内臓、身の付いた骨などの「粗(あら)」のことを指します。

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じゃっぱ汁は、ブツ切りにした「粗(あら)」を野菜(主にネギと大根、白菜)などと共に煮込んだあら汁で、タラのじゃっぱ汁が一般的ですが、鮭などで作られることもあります。

魚を余すことなく使い切る先人の知恵と栄養価に優れた郷土料理です。

 

 

「くじらもち」とは?

「くじらもち」は、山形県新庄市の最上地方、及び青森県鰺ヶ沢町・青森市浅虫温泉付近で作られている郷土菓子です。山形で「久持良餅」、青森では「久慈良餅」とも書かれます。

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「くじら餅」という名前ですが、材料にくじらの肉を使っているわけではありません。名前の由来の諸説はいくつかあり、保存が効くことから「久しく持つ良い餅」だといわれ「久持餅(くじらもち)」という名が付いたという説や、サイズの大きさからくじらに例えた説、見た目がくじらの皮付きの脂身を塩漬けにした塩くじらに似ていたからという説、江戸時代に、新庄藩の第3代藩主・戸沢正庸(とざわまさつね)の時代に兵糧食としてつくられていたという説などがあります。

くじらもちは、もち米とうるち米の粉を水で練り、箱の中でのばし、ムキ胡桃(くるみ)、砂糖水を加えて、せいろで蒸したもので、白砂糖、黒砂糖、醤油、味噌、あんこ入りなど多彩な種類があります。

旧暦の桃の節句(4月3日)に雛菓子と一緒に「くじら餅」をお供えする風習があり、大皿に盛り付けて、雛壇の前にお供えし、これを食べながら春の訪れを祝いました。

「現存12天守」とは?

現存天守(げんそんてんしゅ)」とは、日本の城の天守のうち、江戸時代またはそれ以前に建設され、現代まで保存されている天守のことで、現存する12の天守を「現存12天守」と呼んでいます。

しかし、現存天守は必ずしも創建当時の建物をそのまま保存されているものということではありません。現存12天守を分類してみると、

①修復を繰り返しつつ、ほぼ創建当時の天守を維持してきたもの

彦根城(滋賀県)」「姫路城(兵庫県)」

②城が存城であった当時に再建、改築した天守がほぼそのまま残っているもの

犬山城(愛知県)」「松山城(長野県)」「松江城(島根県)」「高知城(高知県)」

③付随する一部の建物が焼失し改築されたもの

宇和島城(愛媛県)」

④明治維新以降に付随する建物を撤去、または損失し、天守のみが残っているもの

 「弘前城(青森県)」「備中松山城(岡山県)」「松山城(愛媛県)」「丸亀城(香川県)」

⑤損失したが遺材を組み直して再建されたもの

丸岡城(福井県)」


 天守の数の推移


関ヶ原の戦い前後に城の数は最盛期を迎えましたが、江戸幕府の「一国一城令」で城が取り壊され、「武家諸法度」により新たな築城や増改築が禁止されたことにより減少の一途を辿りました。

また、幕末における戦乱や明治政府の「廃城令」に伴う撤去、天災などにより更に数を減らし、 1940年代までには、20にまで減少しました。

さらに、第二次世界大戦時の1945年(昭和20年)に、アメリカ軍の爆撃によって「水戸城(茨城県)」「大垣城(岐阜県)」「名古屋城(愛知県」「和歌山城(和歌山県)」「岡山城(岡山県)」「福山城(広島県)」「広島城(広島県)」の7城の天守が焼失し、1949年(昭和24年)の失火によって「松前城(福島県)」の天守が焼失したことにより現在の「12」という数になりました。

 「現存12天守」は、一般的に近現代に再建された天守と比較して「本物の城(天守)」と言われることがあります。それは、天守の維持・保存に、文化庁の指導のもと、釘一本に至るまで伝統的な城郭建築の技法を求められる為だからだそうです。(つまり費用も多額になります。)

 12の天守のうち、「犬山城(愛知県)」「松山城(長野県)」「彦根城(滋賀県)」「姫路城(兵庫県)」「松江城(島根県)」は、国宝にしていされています。

「弘前城」とは?

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「弘前城(ひろさきじょう)」は、青森県弘前市下白銀町にある城で、別名「鷹岡城」「高岡城」と呼ばれていて、江戸時代には津軽氏の居城として、弘前藩の藩庁が置かれ、津軽地方の政治経済の中心地となっていました。

なぜ、弘前城が、別名「鷹岡城」や「高岡城」呼ばれているかといえば、弘前は元々、鷹岡や高岡などと呼ばれていた時期がありました。現在の弘前城の場所には高台にあり、鷹が生息するような森が広がっていて鷹狩が行われていたことに由来しているそうです。

「鷹岡」から「弘前」に変わった理由には諸説ありますが、1628年(寛永5年)に津軽信牧が帰依していた天海大僧正が弘前と命名したという説が有力のようです。津軽為信が鷹岡に城を築く途中で亡くなり、二代目の津軽信牧が完成させた城名が鷹岡城であり、1628年(寛永5年)に地名が変更になると地名に合わせて城の名前も変更され、鷹岡城から弘前城となったと伝えられているからです。

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現在は、堀、石垣、土塁等城郭の全容がほぼ廃城時の原形をとどめ、8棟の建築と現存12天守である天守1棟が現存します。

1871年(明治4年)に廃藩置県が行われた際に、旧藩主であった、津軽家より旧領民の為にと、城内の土地を市民に開放するべく申し入れを行い、弘前城公園として、市民に開放されることになりました。現在は弘前市が所有・管理しています。園内には1903年(明治36年)以降桜の植樹が行われ、現在では2000本以上になっています。