「べろべろ餅」とは?

「べろべろ餅」は、山形県鶴岡市温海地域に伝わる郷土食で、 もち米ではなくうるち米で作られた棒状のもちです。つきたての米を専用の機械に入れると、「べろべろ~」とひも状に出てくることから、その名が付いたといわれています。

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ちぎって鍋などに入れるとすぐにやわらかくなることから、マタギが狩猟で山ごもりするときの保存食として持ち歩いたそうです。やわらかくなったあとに煮崩れしないのも特徴の一つで、お鍋の具としておすすめです。

他にもおしるこにいれたり、また、べろべろ餅にはあらかじめ少し塩味がついているのでそのまま焼いて食べても美味しいそうです。

「山居倉庫」とは?

「山居倉庫」は、山形県酒田市山居町にある米保管倉庫です。1893年(明治26年)に旧藩主酒井家によって建てられました

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米の収容能力は10,800トン(18万俵)で、夏の高温防止のために背後に欅並木を配し、内部の湿気防止には二重屋根にするなど、自然を利用した低温倉庫です。

白壁、土蔵づくり12棟からなる倉庫群のうち、9棟は現在も農業倉庫として使用されています。
残りのうち2棟は酒田市観光物産館「酒田夢の倶楽」として、1棟は庄内米歴史資料館として利用されています。

米の積出港として賑、NHK朝の連続テレビ小説「おしん」のロケ地にもなりました。

「じゅんさい鍋」とは?

「じゅんさい鍋」は、秋田県の郷土料理で、じゅんさいをふんだんにつかった鍋料理です。

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「じゅんさい」は、水深50〜80センチメートル程の沼や池に自生するスイレン科(ハゴロモモ科)の多年生水草で、茎は水底の沼の中の根茎から長く伸び、夏季にはハスの葉のように水面いっぱいに浮葉を広げます。

水面下の、寒天状のぬるぬるとした透明な粘質物の付いた幼葉や葉柄を摘んで食べます。生のものを味わえるのは、主に6月~8月上旬頃までと、僅かな期間のみだそうです。

品種として、葉裏が緑で収穫物の色上がりがよい青系品種と、葉裏が赤みを帯びた赤系品種の2種類があります。

かつては、日本全国に分布し、古くから食用にもされてきましたが、水質のかなり良い池沼にのみ自生する水草なので、環境の悪化により今では、秋田県三種町森岳地域のように限られた地域でしか生息していません。ちなみに秋田県は、じゅんさいの生産量日本一で、秋田県三種町が国内生産量の約90%を占め、「じゅんさいの町」

「御座石神社」とは?

「御座石神社(ござのいしじんじゃ)」とは、秋田県仙北市西木町にあり、田沢湖の北に位置する神社です。

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社伝によると、今からおよそ600年前の室町時代に創建とされたとされています。

田沢湖に古くから伝わる「辰子伝説」の辰子姫を祀っています。龍神になったという伝説の辰子姫を祀る事から、古くは「龍神社」と呼ばれていたそうです。

御祭神は事代主神・綿津見神・龍子姫神とされています。

1911年(明治44年)、生保内村の「蛭見神社」「浮木神社」を合祀し、「龍神社」と呼ばれていた社号を現在の「御座石神社」へ改称しました。

名前の由来は、1650年(慶安3年)に秋田藩第2代藩主佐竹義隆が田沢湖を遊覧した際に腰かけて休んだという「御座石」からきています。

朱塗りの鳥居の傍には、1本の木から7種類の木が生えたといわれる「七色木」や、辰子が飲んで龍となったといわれる「潟頭の霊泉」、辰子が姿を映したといわれる「鏡石」があります。


御祭神


〇 「龍子姫神(たつこひめのかみ)」田沢湖の主である龍神・辰子姫を神格化したもの

〇 「事代主神(ことしろぬしのかみ)」大国主の子で託宣を司る神。海の神、五穀豊穣商売繁盛の神。

〇 「綿津見神(わたつみのかみ)」海の神。

 


「辰子姫伝説」とは?


 田沢湖には古くから「辰子姫伝説」と呼ばれる伝説が残っています。

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昔々、神代村の神成沢に辰子と云う名の類まれな美しい娘が暮らしていました。

自分の美貌を自覚した辰子は、いつまでも若く美しくありたいと思うようになりました。永遠の美しさを得るために、院内岳の大蔵観音に百夜の願掛けを行いました。
百日目の夜、観音様が現れ「それ程までに永遠の美しさを願うなら、山の北に湧く霊泉の水を飲むと良い」との掲示を受け、辰子はそのお告げに従って、霊泉の水を飲み始めました。
しかし、一口水を飲むとさらに喉が渇き、飲めば飲むほど喉の渇きがひどくなり、
一心不乱に水を飲み続けるうちに龍へと化身していました。

自らの身に起こった報いを悟った辰子は、田沢湖に身を沈め、田沢湖の主となったと伝えられています。

また、龍となった辰子と対面し悲しむ母が、別れを告げる辰子を想って投げた松明が、水に入るとクニマスとなったという伝説もあります。(1940年(昭和15年)の発電所の建設と玉川河水統制計画が行われるまで田沢湖は、摩周湖に迫る31mの透明度があるくらいきれいな湖でクニマスなどの魚がいました。)

「はっと汁」とは?

「はっと汁」「つゆはっと」は、はすいとんの一種で、小麦粉の生地を薄く延ばしてちぎった「はっと」を汁で煮込んだ主に東北地方に伝わる料理です。

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小麦粉に水を加え、耳たぶ程度のかたさになるまでよく練り適当な時間寝かせます。熟成した生地を薄く延ばしながら仕立て汁に入れ茹でます。

「はっと汁」の出汁や具材は、地域や家庭により様々で、野菜やきのこ類、鰹節、煮干し、鶏、豚など家庭によって異なりますが、多くの場合で、油麩もしくは油揚げ具としていれます。

お米を満足に食べられなかった昔は畑に小麦などの雑穀を栽培し飢えをしのいでいました。はじめは米の代用食としてでしたが、より美味しく食べたいと思う人々の願いが、現在の「はっと汁」へと工夫され美味しい料理となりました。

名前の由来の諸説にはいくつかあり、小麦粉料理を好む農民が増え、米の生産を怠ることを憂えた殿様が、ご法度を発令した説や、小麦粉で作った料理「ほうとう」説などがあります。

宮城県の登米町史には、旧暦の七月七日の七夕に「晴れのご馳走」として「はっと」を食したとの記述が残っているそうです。

現在では、12月初旬に、宮城県登米市迫町中江中央公園において、全国のはっとに似た料理が集まる「全国はっとフェスティバル」が開催されています。

「まめすっとぎ」とは?

「まめすっとぎ」は、岩手県で昔から食べられている郷土料理・菓子で、「豆しとぎ」とも呼ばれます。

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かつては、旧暦の12月12日に山の神様や家神様のお供えとして大豆が収穫される秋から冬にかけて作られていました。現在でも、一年の農作業をねぎらい、収穫に感謝する「秋じまい」という農家の行事などでつくられています。

材料は、青豆・米粉・砂糖・塩だけを使い、一つ一つ丁寧に手作りしている生菓子です。青豆の素材を生かし滑らかで甘く仕上げているのが特徴です。

作り方は、青大豆をきれいに洗い一晩水につけておき、塩をひとつまみいれた湯で沸騰させ、ざるでお湯を切り冷水で冷やし、ミキサーなどで粗目に粉砕したものと米粉と砂糖、塩を合わせてよく混ぜ、太さ5cm程度の棒状にまとめ、1cm程度の厚さに切る。

「中尊寺」とは?

「中尊寺(ちゅうそんじ)」は、岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗東北大本山の寺院です。本尊は釈迦如来で、寺伝によると、850年(嘉祥3年)「円仁(慈覚大師)」が関山弘台寿院を開創し、859年(貞観元年)に清和天皇から「中尊寺」の額を賜ったと伝承されていますが確かな史料は残っていません。実質的には12世紀初頭、奥州藤原氏の藤原清衡が釈迦如来と多宝如来を安置する「多宝寺」を建立したのが、中尊寺の創建と見られています。

ちなみに、「円仁」は、最後の遣唐使の一員として大陸に渡り、東アジアの三大旅行記の1つ「入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)」の著者として知られています。(「円仁」は、入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)と呼ばれる僧の一人)

奥州藤原氏三代ゆかりの寺として、平安時代の美術、工芸、建築の粋を集めた金色堂を始め、多くの文化財を有していて、2011年(平成23年)6月26日、「平泉 仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」の構成資産の一つとして世界遺産に登録されました。

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11世紀後半、「前九年・後三年の合戦」を経て、安倍氏・清原氏と受け継がれた奥六郡(岩手県中南部)を藤原清衡公が伝領し奥州藤原氏が興ります。藤原清衡は江刺郡豊田館から平泉に居を移し、1105年(長治2年)に関山に中尊寺を造営しました。

しかし、1189年(文治5年)に源頼朝が、藤原氏を滅ぼした後、中尊寺をはじめとする平泉内の寺院は荒廃していくことになります。

さらに、戦国時代に入るとさらに荒廃が進み、豊臣秀吉の命令によって中尊寺の秘宝である「金銀字一切経(きんぎんじいっさいきょう)」「金字一切経(きんじいっさいきょう)」あわせて4,000巻以上が京都伏見に運び出されました。それが現在「中尊寺経」として高野山や観心寺などに所蔵されています。

江戸時代に仙台藩領となった平泉は、歴代の藩主によって、堂社を修理するなど中尊寺はあつく保護されまあす。現在参道ぞいに立ち並ぶ樹齢350年の老杉も仙台藩によって植樹されたものです。

明治時代以降も、国庫の補助による数度の修理がおこなわれ。「金色堂」は国宝建造物第一号に指定され、その他3,000点以上の宝物が国宝・重要文化財の指定を受けることになりました。

1958年(昭和33年)には比叡山延暦寺より不滅の法灯を分灯し、「天台宗東北大本山」の称号が認められることになりました。